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発想とテクニックの境界線

大喜利PHPには「発想」「テクニック」というふたつの概念があるらしい。
 
しかし、これらはきちんと定義されることが少ない。
しかも定義がうやむやなまま「テクニック」が貶められるケースが存在しているようだ。
 
定義がきちんとしていない段階での批評は、非常に危うい。
概念が存在している以上、なんらかの定義があってしかるべきだ。
そこで今回、私の考える境界線を提示してみる。
 

大喜利PHPで
お題をみる→ボケを投稿する
の間には、いくつかの段階が存在する
私は、この段階の中に発想とテクニックの境界線があるのではないかと考える。
 
それではさっそくそれらの行動段階の例をみてみよう。
 
1 お題を見る
2 お題を解釈する
3 イメージを思い浮かべる
4 イメージを書き表す
5 ボケを調整する
6 投稿する
 
ごくごく一般的な投稿中の行動は、このように分解できる。
(お題によって、あるいは人によってこの段階は変化する。
しかし、とりあえずここでは例外的な事項と捉える)
 
では、発想とテクニックの境界線はどこにあるのか。
とりあえず、私の考える境界線を引いてみる。
 
 
1 お題を見る
2 お題を解釈する
3 イメージを思い浮かべる
------------------(境界線①)
4 イメージを書き表す
------------------(境界線②)
5 ボケを調整する
6 投稿する
 
 
ご覧のように、これらの行動段階に
私は二本の境界線を引く
 
「あれ、2つの概念なのに、二本引いちゃってるこの人」と思った方。
順を追って説明するので待ってお願い。
 


まずは、2つの境界線について具体的に説明する。
 
①3と4の境界線
 
まず、第一の境界線について。
この境界線は、イメージの「想像」と「書き出し」の間に引かれる。
 
この境界線は、
「発想」と「表現」の境界線だ。
思い浮かべたイメージを書き表す作業には、技術が必要となる。
それがたとえ初歩的な日本語使用技術であったとしてもだ。
 
例を挙げよう。
お題は「携帯電話の新機能」とする。
 
3 「イメージを思い浮かべる」
携帯電話のボタンを押すとゾウが涙を流しはじめた
どうもこの携帯はゾウの昔の記憶を思い起こす機能があったようだ
ゾウの涙はとめどなくあふれつづける
水滴から水たまり、水たまりから川、川から海へ
流れゆくままゾウは海を創りだした
わたしはその海のうえで、ぼんやりと浮いている
 
4 「イメージを書き表す」
・ゾウを泣かせて涙で海ができてゆく
 
この間には、少なからずテクニックを使用しているところがある。
それは、イメージを短縮させるというものであったり
日本語として通る文にするというものであったりする。
 
とはいえ、この境界線において
最初の「発想からテクニックへの遷移」が行われていることがわかる。
 
 
②4と5の境界線
 
次に、第二の境界線について説明しよう。
 
この境界線は、
「表現した文」と「完成ボケ」の境界線だ。
さきほどの段階で表現された文章は、完成形ではない。
これを「ボケとして完成された形」に持っていくまでにはテクニックを必要とする。
 
4「イメージを書き表す」
・ゾウを泣かせて涙で海ができてゆく
 
5「ボケを調整する」
・ゾウを泣かせて海つくる
 
ここで用いるテクニックは、
日本語使用技術というよりも、「大喜利のボケを完成させる技術」だ。
それは根本からの言い換えであったり、
助詞抜きやリズムづくりであったりする。
 
この境界線において、発想はよりテクニックへと近づく。
①でのテクニックが無意識的なものであったのに対し、
この②のテクニックは明らかに意識的に用いているものだ。
 

さて。
だらだらと二本の境界線について述べてきた。
ここで、なぜ私が二本も境界線を用意したかについて説明しよう。
 
 
これまで見てきたように、
理論としてまとめれば、たしかに境界線は二本引かれる。
しかしながら、現実はそうならない
 
端的に言えば、
・①が「発想」と「テクニック」の境界線だ
・②が「発想」と「テクニック」の境界線だ
の、二通りの考え方があるということだ。
 
どちらが正しいということはない。
どちらの考え方を持つかは
・日本語能力の違い
・大喜利経験の違い
・自分が調整を行うかどうかの違い
など、さまざまな要因によって変化していくのだ。
 
私見を述べれば、
①の境界線の方がより純粋に両者を区分している。
「テクニック」という言葉を用いるのであれば
無意識的にしろ、意識的にしろ
発想を書き出す能力こそがそれにあたるべきだ。
 
逆に、大喜利PHP界隈を見ての実感としては
②を境界線だと考えている方が多いように思う。
つまり、文章として
「テクニックばかりに頼るなよ」というものがあれば、それは
「ボケを完成させる調整能力ばかりに頼るなよ」
と言い換えできる場合が多い、ということだ。
 
しかしながら、②の境界線のみが存在する、という視点は
無意識的なテクニックを考慮に入れていない点で
甚だ疑問の残るものである。
 
生み出した発想をそのままボケとして完成させられる人もいるはずだ。
それはその人の日本語能力が大喜利に近しいものであるというだけで
小手先に頼っているというような批判は全く的を射ていない。
 
①の境界線を勝手に無視してもらっては困る。
発想をボケにつくりかえる、という点を純粋に捉えれば
テクニックは誰もが用いている簡素なものではないだろうか。
 
「発想」と「テクニック」の境界線は二本存在する。
私見では、第一の境界線、「発想」と「表現」の境界線が
より純粋にそれらを分ける境界線となりうる。
これが、今回私の出した結論だ。


以上です。
前段として書くつもりだったのにえらい長い。


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